誰かに大切なことを伝えようとするとき、
人は膨大な情報を集め、洗練された構成を考え、丁寧な資料を作り上げる。
それは誠実な姿勢であり、学びや努力の結晶と言えそうです。
相手の理解を願い、誤解のないように、できる限りの配慮を尽くす。
しかし、ときにそこに“伝えることが目的ではない別の動機”が潜んでいることがありえます。
たとえば、ある専門的な理論を伝える場面を想像してみましょう。
理論の本質を正しく伝えるため、背景や文脈、前提条件に多くの時間を割く。
結果として資料は分厚くなり、語る言葉は専門的な深さを増していきます。
それは一見、「相手に理解してほしい」という純粋な意図に見えます。
でも、その丁寧さの奥に、別の前提が潜んでいる可能性があります。
「わかりやすくしすぎると、自分の専門性が軽く見られるかもしれない」
「深く理解されるより、“よくわからないけどすごい”と思われたほうが安心だ」
つまり、「わかってもらいたい」と「わかってほしくない」が同居している状態です。
このようなとき、人は「もっと丁寧に伝えなければ」「誤解されないように」と、
さらに資料を整え、言葉を磨き、構造を重ねます。
その努力が過剰になっていくと、いつしか相手にとって「届かない言葉」になってしまう。
そして、もし誰もがひそかに思い始めるーー。
「これって、わかりやすくする気がないんじゃない?」
「本当は、わかってほしくないのかもね」
その指摘は、とても痛い。
だから多くの場合、人は理路整然と反論する。
「この理論は表層的な理解では意味がないんです」
「ちゃんと踏み込まないと逆効果です」
「だから、ここまで丁寧に説明してるんです」
確かに、その言葉に嘘はない。本心です。
でも、それは「防衛反応」である可能性があります。
防衛反応は、単に否定や怒りとして現れるわけではありません。
過剰な説明、完璧な準備、専門的な言葉の選択――
そうした一見“前向きな行動”の裏にも、
「自分を守りたい」「不安を感じたくない」という小さな動機が潜んでいる。
その奥には、こんな願いがあるかもしれない。
「まだ未熟に見られたくない」
「誰かに支えてほしい」
「不安な気持ちを打ち明けられるほど、まだ余裕がない」
そうした奥なる願いに気づくことができたとき、
人は初めて、「自分がどう思われるか?」ではなく、
「なんのためにこれを伝えたいのか」を問うことができる。
本当に伝えたいことがあるとき、最初からすべてを説明しきる必要はありません。
まずは、相手がふと「面白い」と思えるような入り口を用意する。
そこから少しずつ、対話の中で深めていけばいい。
正しい情報を詰め込むより、問いを残すこと。
専門性を主張するより、共感を手渡すこと。
それは「自分だけが分かっていたい自分」から「共に考える自分」への変化かもしれない。
防衛反応は無意識のものです。
その姿はしばしば「正しさ」や「努力」に見え、他人はそれを疑おうとしません。
けれど、ふと違和感を感じた誰かの小さな一言が、
自分の奥に隠れている防衛反応的「前提」に刺激を与えるときがあります。
その刺激を素直に受け入れて、自分の内面を深ぼってみるとき、
新しい自分、他者に対してより開かれた自分が現れる。
積み上げた専門性と開かれた姿勢。
それを両立できる人材は、これからの時代、どこに行っても活躍できる人材だと思います。
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